実践総合農学会  
 

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  <食農と環境の最前線レポート@> 

  
  
人間にとって自然と生きることとは
 

 

−岩手県 バッタリー村の挑戦−

●バッタリー村ってどこにあるの?
   みちのくの小京都と呼ばれる岩手県盛岡市は東北新幹線で2時間半で行ける。同じ岩手県内にあるバッタリー村までは盛岡からバスで2時間,バス停からさらに車で30分の岩手県下閉伊郡山形村荷軽部の木藤古集落にある。盛岡からバッタリー村に行くためには戦後日本のチベットといわれ厳しい自然条件の中で貧しい生活を余儀なくされた北上山系に点在する多くの集落を超えていく。春は名曲「北国の春」の情景を,初夏や夏ならばまばゆいばかりの新緑の回廊を,秋は極彩色の紅葉の中を,そして冬は白銀の世界を谷に落ちないかとヒヤヒヤしながら進む。初めて行く人は,本当にバッタリー村はあるのか不安にさいなまれる。
   バスは,山形村の中心部の物産館の前で降りなければならない。車の場合,ここからバッタリー村までは,事前に道路をきちんと下調べしておかなければたどり着けないであろう。もし,道を間違っても道を聞ける人に出会えるチャンスはそう多くない。すれ違う車も無く,集落も点在しない道路を走っていくと,道の左側にバッタリー村と大きく書いた看板にぶつかる。そう,ここがバッタリー村である。しかし,村といっても家は1軒しかない。本当にここがバッタリー村なのか不安になってしまう。車を降りると,人なつこいアヒルの親子ととてつもなく元気な犬が出迎えてくれる。しかし,人が現れる様子はない。ただ,作業場の奥の方で何やら作業をしている人がいる。思いきって声をかけてみる。すると,「よう,おでんした」と岩手なまりのくりくりと輝く目をした初老のおじさんが出てくる。そう,この人がバッタリー村長,木藤古徳一郎さんである。たとえ,初対面であっても木藤古さんは十年来の知己にあったような態度と笑顔で迎えてくれる。なんともいいようのなかった不安はこれでいっぺんに吹き飛び,田舎の実家に里がえりしたような気分にしてくれる。

●どうしてバッタリー村ができたの?
   バッタリー村の開村は1985年7月であるから今年で20年を迎える。山形村は,東北に大冷害をもたらす「やませ」の影響を強く受ける地域で,米はとれず,昔から日本短角種と呼ばれる放牧にめっぽう強い牛の飼育と広大な山林資源を活用した炭焼き,そしてヒエ,アワなどの雑穀の生産で生活してきた村である。この放牧を中心とした日本短角牛の重要性と安全性にいち早く注目したのが消費者団体である「大地を守る会」であり,83年から山形村との交流がはじまった。当時木藤古さんは,地元農協の部長として短角牛の振興に精魂を傾け,大地を守る会との短角牛の産直の確立に奔走した。しかし,国や県,そして大地を守る会によって守られたとはいえ,黒毛和種のようにサシが入らない短角牛の価格は輸入牛肉の増大によって低下の一途をたどっていった。また,石油によって炭の需要はほとんどなくなっていた。
   こうした状況の中で過疎化し次第に内向的になっていく村人の姿を目の当たりにした木藤古さんは,農協を早期退職し木藤古集落に帰り,新たな活動を模索した。当時の木藤古さんの頭にあったのは,老人達が「この村でいかに生き生きとした暮らしをしていくか」であった。そのために取り組んだのが,「囲炉裏の復活」である。木藤古集落は5戸18人の小さな集落である。この集落住民が気楽に集まり本音で語れる場所が囲炉裏である。その効果は大きく,ムラで生き生き暮らすための様々なアイディアが生まれた。その一つが,バッタの復活である。バッタとは,水車のような大がかりな装置を必要としないで沢水を利用して臼をつける大規模な「ししおどし」のようなものである。幸い村には沢山の沢があった。バッタを作ってみると,道行く人々が珍しさから車を止め眺めるようになった。そのバッタの近くに無人の農産物直売小屋を置いたら野菜が売れるようになった。また,村人の多くは厳しい山村生活の中で身につけた日用品(ワラ,ミノ,ムシロ,ナワ,わら靴,木彫り,炭)作りの技をもっていた。これも直売所に置いたら飛ぶように売れた。こうした経験が,「この技を活かして集落を活性化しよう」「昔の生活文化を再現して自信をもって生きよう」「故郷の資源に感謝しよう」という徳一郎さんの考えを固めるきっかけとなった。そのため,新たな目標に挑戦する決意を込めて,バッタリー村を開村した。なお,バッタリーとしたのは,バッタでは語呂が悪いからである。
   開村の精神は,「与えられた自然立地を活かし,この地に住むことに誇りをもち,ひとり一芸何かをつくり,都会の後を追い求めず,独自の生活文化を伝統の中から創造し,集落の共同と和の精神で生活を高めます」と自信をもって謳われている。

●はてしなく続くバッタリー村の活躍
   こうした村人による生活改善の試みが大きな注目を集めるようになったのは,木炭研究の第1人者である岸本定吉氏と徳一郎さんが木炭の重要性で意気投合したことが大きい。その後,二人はバッタリー村で木炭復活のための活動を展開した。こうした活動の中に炭焼き体験の受け入れがある。地元ばかりでなく県都盛岡の小学生,中学生が数多く集まった。しかし,徳一郎さんは決して都会の人々に迎合した活動を展開したわけではない。その活動の基本は共同作業である。自然散策路の整備,少人数の会合ができる茅葺き小屋の建設,植林・植樹等,子供や学生達の提案を実現するという形で共同作業を進め,次第にバッタリー村の形が整っていった。また,子供達に本物の味をしってもらうため,手作り豆腐,山形村の代表的な郷土食である「まめぶ」,保存食「ほどもち」,「そばはっと」,「凍み豆腐」など,かあちゃんパワーを活用した活動も展開した。この成果は大きく,平成5年には「ふるさと・おふくろの味ゆうパック」が販売され,好評を博した。
   こうした自らの誇りある山村の暮らし創造のための地道な活動は次第に知られるようになり,マスコミも注目した。その結果として,訪問者が増加していった。こうした交流をより軌道に乗せるために,徳一郎さんは集落のはずれにある一家離村で朽ち果てた茅葺き農家を復元して活動拠点形成を目指した。これまでのバッタリー村の基本は,村人と参加者の共同作業であり,国や県の補助金とは無関係であった。しかし,この廃屋の復元には900万円の費用がかかることがわかり,初めて行政の支援を受けて86平方メートルの面積を持つ「生き生き創作館」が平成2年に落成した。これにより,宿泊体験が可能となり,岩手大学,弘前大学,東京農業大学などの学生によるバッタリー村の活動支援が継続的に行われるようになった。
   また,バッタリー村の活動は国内だけでなく,製炭技術の修得を目指すインドネシア,パラグアイ,タンザニアなどの研修生を受け入れるなど,その活動は大きく世界に拡大している。特に最近は各種の山野草を利用した染色,ムシロを利用した掛け軸(夢織り),藤づるや樹皮を利用したバックや各種の工芸品(夢編み)など,その活動の夢は大きく広がっている。
   また,バッタリー村は,他人の意見をじっくりと聞いてくれる徳一郎さんの人柄に惚れ込んだ多様な人々が集まる場にもなっている。「箒づくりの名人」「縄文土器の再現者」「郷土史家」「自然保護団体」「福祉関係者」「学者」「教育関係者」等,実に多士済々である。こうした魅力ある人々は,学生など若者を時に叱咤激励しながら共に汗を流し,酒を飲みながらの囲炉裏談義で若者の心を魅了している。そして,訪れた多くの人々がバッタリー村の自然に触れ,素晴らしい人たちと語り,木藤古ご夫妻の人柄に触れ,バッタリー村心酔者となってそれぞれの活動の場に帰り,またバッタリー村に帰ってくる。バッタリー村での滞在は,彼らの目を木藤古ご夫妻のようにやさしく輝やかせ,未来と自らを信ずるように変える。
   バッタリー村の活動は,単なる村づくりだけに止まることなく,人間と自然の関わり方,資源の保全と活用の仕方,そして人間と社会との関わり方をやさしく教えてくれる。現代人が近代的な生活を追求する過程で忘れてきた「やさしさ」「人間らしさ」「自然の大切さ」の原点を教えてくれるのがバッタリー村である。

   

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